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masayoga column
瞑想の数式化
自分と思っている自分とはその自分でなくて、あくまで関係性の中にしか存在しない。
つまり、あえて言えば、関係性自体が自分ということ。
自分がいて、それを体験しているのではなく、関係性から起き得る体験があるから、自分というものが今この瞬間のそのように存在できている。
関係性が変われば、自分は変わる。
ならば、変わらない自分がそれを体験しているのではなくて、それを体験している自分とはその関係性から生じる体験そのもの。
それが「縁起」だし、無常だし、無我なのですね。
だけど、「縁起」というこの世界の成り立ち、また、無常性や無我性に気づいていない抽象度で生活していると、自分と離れて物事があり、それがそのように一方的に実在していると捉えてしまいます。
その状態を「実観」(じつがん)といいます。
だけど、縁起を瞑想し、実体や存在性の真実を突き止める瞑想などをして、それの存在の恒久性や絶対性がないということがわかると、現実が揺らぎ、世界がガラガラと崩れ落ちるような体験的理解が起きます。
思っていたようにそれがあるわけではないんだと。
可能性しか広がってないんだと。
無いからこそ、それがどのようにも有れると。
有と無を包摂したような感覚(これはオントロジカルネットワークでも説明されています)。
その状態を「空観」(くうがん)といいます。
そして、無くて何とでもなるなら、ゴールの達成や多くの人の幸せのために、自分に仮の役割を持たせて、世の中の役に立とうとして、また自分という存在に、名付けし、実体を与え、機能を持たせる。
それを使って、使命を全うし、世の中の役にたつする。
その状態を「仮観」(けがん)といいます。
これらをバランスをとって自由になっている状態を「中観」(ちゅうがん)といいます。
「空」を知るだけでもかなり自由になり、それはそれでいいですが、やはり仮観・中観にいきたいものです。
クリプキの可能世界意味論の指し示すように、それが「真」となるような世界に移行できるなら、移行したほうがいい。
これをシンプルな数式にすると
1 × -1 = -1
(実観)(空)(空観)
しかし、これだけでは足りない。
空観をもう一度、空じます。
-1 × -1 = 1
(空観)(空)(仮観)
結局また1に戻るんだけど、つまり「実観」も「仮観」も、見た目は変わらないんだけど、一度「空」を通っているから、全く重みが違う。
そんな風にしてどんどん更新していくんです。
何度も何度も、ひっくり返し続けて、進化していく。抽象度の階段を上っていく。
ひたすらにひたすらに。
それが瞑想道です。