masayoga column

『愛』についての考察

『愛』についての考察


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今回は、読者の方からご要望のあった、「愛とは何か?」について語ってみたいと思います。

これだ!と一つの定義を出すより、いろんな観点を出した方が面白いかと思ったので、いくつか用意してみました。

なので、全部理解して取り入れようとせずに、ご自身の中で使えるものをピックしていただくくらいの軽い気持ちで読んでみてください。

<「愛」は言葉では、語れない!?>

さて、冒頭からこんなことを書くのもどうかと思いますが、「愛」は言葉では、語れないものです。
つまり、言葉で表せる抽象度を超えたものであり、言葉にした時点でするっと、うなぎが逃げるかのように、目の前から姿を消してしまうのです。
(しかし、ご安心ください。それで大丈夫なのです。最後のオチまでちゃんと読んでくださいね)

釈尊は、そのことをこのように残しています(実際は、十大弟子が残したのですがww)

「自分の悟ったところを、人々に話して聞かせることはむだである。自分の悟った法は、あまりにも深く、あまりにも微妙であって、愛欲に盲いた人々のよく理解するところではない。説法することは、むだな努力であり、いや、聖なる法を、それにふさわしくない方法で取り扱うことにもなる。このまま沈黙をまもり、ただちに涅槃にはいるに如くはない」


(釈尊と薔薇、なんか似合いますね!)

つまり、釈尊は、本当のところは説法では、言葉では、法(ダルマ)を伝えることはできないという立場だということです。
だから、悟りについては、釈迦は「無記」とし、なかなか人に教えをすることを拒んだそうです。

禅の言葉でも、「不立文字」(ふりゅうもんじ)といって、言葉では到底伝えられないと言ったり、「教外別伝」(きょうげべつでん)と言って、教え(言語表現されたもの)の外に伝わるものが本当のことというようなニュアンスの表現があります。

だけど、そんなこと言ったら、ここで「はい、しゅーりょー、アップでーす」ということになってしまいますから、やはり書きますね。
よって、ここから、いろんな視点から、「愛とは〇〇」であると定義したり、解説していきますが、やはりその言葉の抽象度を超えたものであるということは大前提としてください。

<愛とは「無条件」ではない>

さあ、まず、この言語表現できない愛をどうして言語表現しましょうか?

そのまま直では、「無限」を表せないように(まあ、無限って言ってる時点でそれの存在を仮定できているんですけどね)、「愛」を言語表現することはできないですよね。
よって、ちょっとここでは、「背理法」的な思考回路を用いて、やってみましょう。


(誰かがこのCMの曲が「背理♫ 背理♫ フレ 背理法〜♩」にしか聞こえないと言ってて爆笑した覚えがwww(古くてすみません))
丸大食品CM

「背理法」とは、例えば、有名どころでは、「素数が無限に存在することの証明」で使われたりします。

素数が無限にあることを証明しようと思って、そのままにしてしまうと、無限を扱わなくてはいけなくなるから、無限を読みに行くのはキリがないから、証明できないですよね?
よって、このようにします。


「素数は無限に存在する」という命題。

この命題を同値(つまり「=」で結べると言うこと)でありながらも、扱うことが可能な方法に書き換えます。
それは「素数の数は有限ではない」となります

つまり、「素数は無限に存在する」=「素数の数は有限ではない」
ということですね。

そして、これをひっくり返します。

「素数の数は有限ではない」↔︎「素数の数は有限である」

さあ、これで扱い可能になりました。

そして、この「素数の数が有限である」ことに矛盾が生じることを示すことができれば、「素数の数は有限ではない」ことが正しくなり、その同値である「素数は無限に存在する」ことが正しいと証明されるわけです。
ここは背理法の説明なので、素数の無限証明はしませんが(知りたい方はメールください)、これを使って、愛を定義する試みをしてみましょう。

無限と同じように愛は言葉で表現できません。
しかし、愛の反対なら定義できそうです。

「愛」↔︎「条件付きのもの」

「条件付きのもの」とは、例えば、
「愛してくれるなら、愛してあげる」というような感じですね。
これは、愛とは言えない。


(条件付けとは、これやったら、餌あげるよ〜みたいな感じです。こうならOK!でも、こうだとダメみたいなら感じ)

だから、あなたが、自分に対して、条件付けをして本気で許していないなら、それは自分を愛していないことになります。
条件付けを外していくことは、非常に大切な精神解放術で、本当に楽しいものです。
これら精神解放術については、「フルプラクティス ・アカデミー」で、たくさん取り扱っています。

さあ、話進めましょう。

「愛」↔︎「条件付きのもの」

として、

「条件付きのもの」の反対が「愛」ですから、「条件付きのもの」の反対を別の形で表すことができたら、「愛」の定義が完成しそうです。

やってみましょう。

「条件付き」の反対は?

そう、「無条件」ですね。
よって、「条件付き」の反対が「愛」だったので、
「愛」=「無条件」とできそうです。

しかし、それができないのです。
なぜでしょう?

なぜなら、「無条件なものが愛である」と定義した瞬間に、無条件なものと無条件じゃないものを分けてしまうことになり、無条件じゃないものに対して、お前は違うぞ!!と無条件になることができないのです。
よって、自己矛盾をきたして、「無条件なものが愛である」がロジックエラーを起こしてしまうのです。

やはり、概念は部分関数で、全体から部分を切り分けるものですから、無条件と言っても、必ずそこにはそれの反対が生じてしまって、無条件に慣れないのですね。
こういうのを「二項対立」と言います。後から出てきますから、覚えておいてくださいね。


(概念とは全体から部分を括り出す部分関数です)

さあ、さらに考察を進めましょう。

<愛とは、二極(相反するもの)の統合>

事物の本質は、ニュートラルです。
それ以上でもそれ以下でも、そうであることも、そうじゃないこともない。

もう言い切っちゃいましょう。
その物事の究極のニュートラル性が愛です。

あなたがそれがいいと言っても、そうじゃない人もいる。
目の前にケーキを出されてテンションが上がる人もいれば、砂糖や小麦粉などのソフトドラッグの塊(という意見があります)にしか見えず、嫌悪感を抱く人もいるし、さらに別にどうでもいい人もいる。
(どうでもいい人は、この辺り、マザーテレサの「愛の反対は無関心」とちょいかぶりますね)

ということは、ケーキ自体はニュートラルで、それを見る人によってそれが良く(+)もなったり、悪く(ー)なったりもする。
つまり、二項対立が起きる。

そして、そのニュートラル(愛)に近づくには、その二極の統合をするのです。

人の心は、その二項対立のどちらかしか見ることができません。
ケーキを、好きで嫌いには同時にはなれないのです。

これをmasa-yogaでは「局所認識」として、心の性質の一つにあげています。
(その他にも、「固定化」「歪曲化」「ネガティブ偏向」があります)

つまり、囚われた心では、ニュートラル性は観ることができないのです。

そして、何かが良い(+)ということの裏には、必ず悪い(ー)が含まれているのです。
どちらかが単体で成立することはあり得ません。

これは宇宙物理学からも説明がつきます。
真空では、物質(+)と反物質(ー)が同時に生まれます。これを「対生成」と言います。
そして、また、すぐにくっついて真空に戻ります。これを「対消滅」と言います。

つまり、自分の中にある「+」に「ー」を当てて、対消滅させるのです。
そして、偏った見方、つまり、自分に対する偏見を消して、ニュートラルに持ってくるのです。
この二極(「+」と「ー」)の統合が「愛」なのです。

そのニュートラル性=「愛」が本質なのですが、局所認識をするとどちらかしか見えない。
例えば、なんかあんまりいい例思いつかないですが、友達が少ないという事実があったとして、それをマイナスに見る人もあれば、プラスにとる人もいます。

「深く人と付き合う人なんだね、それは信頼できる」と高く評価する人もいれば、「人脈が全てで、かなりいろんなチャンス逃してない?」と見る人もいるかも。
「一人の時があって孤独でしょ?」とマイナスっぽく取る人もいれば、「自分の時間がたくさん取れていいね!」とプラスに取る人もいる。

だけど、事実は、それは、ただニュートラルな状態であるということ。
友達の数が、平均値と比べて少ないということだけなんですよね。
ただ、それだけ。

もし、そのことをマイナスに見てるなら、そのように前述した「局所認識」によって心の癖にはまっている。
つまり、そのことが持つ良い面が見えていない。
逆にまたもし、そのことをプラスに見てるなら、そのように前述した「局所認識」によって心の癖にはまっている。
つまり、そのことが持つ悪い面が見えていない。

これをニュートラルに持ってくることができると、愛がわかります。

え!?プラスも手放すの?
そうなんです。

なぜならば、マイナスに見ているなら、それは自己評価を下げるから、自己肯定感や自己効力感を下げますよね。
だから、手放した方がいいのは簡単にわかると思います。

だけど、思いの外、自分を縛っているのは、プラスなのです。
プラスで良いと思っているということは、これ、逆を返すと、そうじゃないのが嫌だということなんですよね。


マイナスに捉えていると、そうであることが嫌で何とかしなきゃいけないと言う恐怖ベースで生きていることになる。
プラスに捉えていると、そうでないことが嫌なので何とかこれをキープしないといけないと言う恐怖ベースで生きていることになる。
なので、これ実は同じことなのです。

なので、マイナスに捉えているなら、これのいい面を見出して、ニュートラルに持ってくる。
そして、プラスに捉えているなら、これのよくない面を見出して、ニュートラルに持ってくる。

それをしていない状態は、「+」しか見えてなくて、それを死守しようと苦しい。そうじゃない時の自分が許せない。
また、あるいは、「ー」しか見えてなくて、それを何とか無くそうとし、だけどホメオスタシスにやられたりして無くせなくて、その自分が許せないという状態になってしまいます。これは「愛」から遠ざかる行いです。

しかし、この二極を統合することによって、自分に対する条件付け(つまり、「+」と「ー」が外れるので、ありのままの自分を愛せるようになるのです。
語弊ないように言いますが、あなたは、愛されるために、人から認められるために、何かを捨てる必要なんてないのです。
そのままで、人から愛されるし、認められるのです。

ただ、そのままじゃダメだ!と言うその「心のはたらき」を止滅させることをしないといけないので、もしそう思っているなら、そのままではダメで、本質はありのままで良いのです。

そのありのままで本当にいいんだと分かった時、愛が何かがわかります。
その時、自己肯定感や自己効力感が上がるので、結果的に成長していくようになるのです。

<「有る」と「無い」が同じことだとわかると愛に近づきます>

これについては、前項の「二極の統合」と似ているのですが、ちょっと違うので、別の項にしました。

ここは、ヘーゲルの「弁証法」を使ってみましょう。
弁証法とは、「テーゼ(定立)とアンチテーゼ(反定立)の共通項(LUB)を括って、アウフヘーベン(止揚)し、ジンテーゼ(綜合定立)に至る」という真理に近づく方法です(もちろん、実存主義のキルケゴールはそれにある意味反論するのですが)。
これはどんどん抽象度を上げていく非常にいい方法です。

そうすることで、相反するものが同値であるということがわかって、「進化」(問題だったことが問題でなくなること)すること。
これが、精神性が高い状態であり、より愛に近いということなのです。

シェイクスピアによる「マクベス」「きれいは汚い、汚いはきれい」

また、般若心経「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」
が示していることですね。

相反するように見える、「きれい」と「汚い」が同値である(これは、マイクロバイオータや常在菌の話からも解説することができます)。
また、同じように、相反するように見える、「色」と「空」が同値である。

抽象度が低いといつまでも、それはダメ、これはいいと喧嘩してけど、それが同値だと分かって、次の視点に引き上がって、愛(物事のニュートラル性)に近づきたいのです。

また例を出すと、昔はプロ野球でいう、「タイガース」ファンと「ジャイアンツ」ファンって、めっちゃ仲悪かったのですが、同じ「セ・リーグ」だよ!とわかれば肩を組むことができる。そんな感じです。

それが究極まで行くと「有」と「無」という究極の二項対立が同値であるという理解、つまり「空」が分かり、体感として、「愛」が分かります。例えそれがいっときの喜悦体験だとしてもです。

自分にとって、とても嫌だったものが本当は好きなことだったんだという気づきが起きることで、それが同値だとわかり、一気に精神性が引き上がる。
その時、愛に近づくのです。

そういう意味では、心が囚われていて、局所認識している以上は、愛は見えないのです。
何にも囚われていない心。そのまま、ありのままが観える心なら、愛を見ることができるのです。


(「明鏡止水」曇りなき澄み切ったな心で観るのです)

<愛が全てであり、それ以外は全て幻想である>

これは、Dr. John F Demartiniの言葉です。

人間には先ほど書いたように、局所認識する心の癖があります。
というより、もっと考察を進めると「+」あるいは「ー」であるから見ることができるのです。
言い換えれば、「+」あるいは「ー」であるから、それは意識に上がるのです。

神経科学的には、「脳幹網様体賦活系」(RAS)の働きから説明できます。
RASとは、簡単に言えば、あなたにとって概念的に重要なことだけを意識に上げてくれるシステムです。

「+」は、それをつなぎ止めておきたいから重要性が高く意識に上がる。
「ー」は、それから自分を遠ざけておきたいので重要性が高く意識に上がる。
つまり、見えるものというのは、「+」か「ー」のどちらかなのです。

しかし、これは前述したように、心の癖に過ぎません。
物事の本質は、ニュートラルであり、これは、心が偏見を持っている間は見ることができません。
とはいえ、概念を持っているのが人間というもの。

これはある意味しょうがないことだと言えるのです。
それによって、「虚構」を作り出して、ホモ・サピエンスは世界を席巻した。
そして、それが架空のものに関する概念の誕生を意味するし、だからこそ、今私たちはこのように暮らすことができているわけです。

だから、喜悦体験としての愛以外では、愛を見ることはできないのです。

そう言うことを必要として生きてきたのですから、しょうがないのです。
ちなみにもうこの辺は書く必要はないですが、人を愛してるとかいうのは、愛じゃないですから。
それは、愛着と言い、ここでいうところの愛の定義では全くありません。
そのレベルの話については、ググってもらえればいくらでも出てくるでしょうから、別にこの人が書く必要はないので、これに関しては割愛しますね。


(愛着(あいじゃく)は仏道では煩悩になります)

同時に、物質・反物質が同じだけ生まれているならば、そして、私たちがその系の中で生きているならば、全てのプラスにはマイナスが付随し、また逆も然りです。
ということは、二つで一つで、それは対消滅を起こし、ニュートラルであることが本質なのです。

しかし、私たちにはそれを記憶を使って、逆回転させることをしてしまう心の働きがあります。
つまり、実態としてはもうないのに、記憶を想起して、あの時ああだったから、今もそうであると「万物は流転する」ということを忘れてしまっているのです。

全ては流れ、揺らぎ、また生まれていきます。
もう、あなたの思っている現実はもうそのようには存在していないのです。
逆にいえば、これは今この瞬間も可能性が目の前に広がっているということでもあるんですよ。

でもそれがわからない。
事実は、全てが対消滅を起こしたニュートラル、つまり愛なのに、わざわざまたそれをエントロピーを拡大して、幻想を作り出してしまっている。

本質は、対消滅した「愛」のみなのです。
そして、それ以外は、全て心が作り出したもの+かー、つまり「幻想」なのです。

こうも考えてみましょう。
今、この瞬間にあなたに嫌なことをしている人がいるとします。
しかし、そのことも実は裏に良い側面を含んでいます。
例えば、厳しい上司がいて、問題点を注意されたとします。その瞬間に嫌な人だなあと思うかもですが、それがあったからこそ、10年後に大きなミスをせずに昇進することもあるでしょう。少なくともそれに関して成長できるでしょう。
だから、ここも対消滅を起こしていて「ニュートラル」つまり、「愛」なのです。

また、反対に今、この瞬間にあなたに嬉しいことをしている人がいるとします。
しかし、そのことも実は裏に悪い側面を含んでいます。
例は自分で思いついてみてください。
だから、ここも対消滅を起こしていて「ニュートラル」つまり、「愛」なのです。

また、ある瞬間に、誰かがあなたに嫌なことをしているとします。
でも、そのまさにその瞬間に、他の誰かが同じだけあなたにとって嬉しいことをしてくれています。
そして、それらにも、両極があり、対消滅を起こしているから、「ニュートラル」で、つまり「愛である」

どこをどう切っても、もうそこには、全て同じ分だけ「+」と「ー」が「存在」し、それらは対消滅していてニュートラルになる。それしかないのです。
つまり、「愛」しか存在していないのが、事実なのです。
なので、今「見えてなくても」、こう断言したいのです。
「あなたはいつも愛に包まれているから大丈夫ですよ」と。

星の王子様も言います。
「とても簡単なことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」


<愛とは関わり>

さあ、とういことで、ここから最後まで駆け上がっていきましょう。

愛とは、さらに何なのでしょうか。

先ほどの項で「愛=物事のニュートラ性=二極の統合」であると定義づけました。

そして、これを一挙に私たちの心に落とし込んでいきましょう。

あなたは自分のことを思ったり、自分のことを感じる時、どのような感じがしますか?
ここ好きだなとか、ここ嫌いだなとか、いろいろ思ったり、感じたりされると思います。

さあ、答えを言います。

「それが愛そのものです」。

「えっ????」

と思われたかもしれません。

断言します。

あなたがあなたをどんな形であれ、感じたり、思ったりしている。
それが「愛」そのものです。

どんな形であれ、あなたがあなたに「関わっている」。
それが愛そのものなのです。

つまり、「愛」とは「関わり」なのです。
どんな形であれ、あなたはあなたに関わっている。

あなたは生まれて(その前のことは知りませんw)このかた、あなたと関わってなかったことは一時たりともなかった。
そして、これからも死ぬまで(その後のことも知りませんw)、あなたはあなたと関わらないことはありえません。
(そして、これはちょい外れますが、大事なこと。あなたは周りの人たちなどとの縁起の結節点として存在していますから、あなたと関わるということは周りの人と関わっていることと同じです)

と言うことは、あなたはこれまであなたを愛してきたし、これからも愛し続けるのです。
(と言うことは、あなたはこれまで周りの人を愛してきたし、これからも愛し続けるのです。)

その関わりの上で起きているのが、概念によって生じる、好きとか嫌いとかの条件付けになるのです。
つまり、そうした好きとか嫌いとかの思いは、「愛」つまり「関わり」というベースなしには生じえない。
なので、あなたがあなたをどんな形であれ、感じたり、思ったりしていること、それが「愛」そのものなのです。

よくヨガや瞑想の文脈で離される近いものを言うなら、これは「気づき」にあたります。

「気づき」の定義は、「ただ意識にあげる」こと。
そのまま読んでくださいね。

「ただ意識にあげること」。それだけなのです。
シンプルすぎて難しいのが気づきなんですよね。

人は意識に上がったらすぐに判断が生じて、それをなんとかしようとしてしまうのですが、何もしなくていいのです。
「ただ意識にあげる」ことが「気づき」であり、「愛」なのです。

体のいろんな部位を、「ただ意識にあげる」と、そこが緩んだりします。
このメカニズムは簡単に説明できます。

「意識にあげる」と、脳内では、その気づき対象が「情報化」されます。
そして、脳はその情報を「最適化」します。

どのように最適化されるかというと、あなたの夢・ゴールが叶う方向で心と体に変わって行く。
つまり、夢を持ち、集中して意識にあげるだけで成功脳へと変えて行くことができるのです。
夢を持ってなくても、先天的に持ってるゴールがあるので、それはそれで大丈夫です。

まあ、そう言うこともあるのですが、気づきを愛とするなら、まあ、愛されたらそりゃ緩むでしょって感覚の方がしっくりくるかもしれません。

と言うことで、「愛」ついて、いくつか考察を重ねてきました。
「愛」とは決して、「好きだ〜」とかそういったものではありません。

常に私たちのベースとしてそこにある「関わり」そのものであり、あなたはずっとあなたやあなたの周りの方々を愛してきたのです。
そして、これからも愛し続けるのです。
まさにMr.Childrenの「名もなき詩」中にある、「愛はきっと奪うでも与えるでもなくて 気がつけば、そこにあるもの」なのです。

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