masayoga column

『自分らしく』と『自分勝手』の違い

『自分らしく』と『自分勝手』の違い

 
今回のテーマは、「『自分らしく』と『自分勝手』の違い」についてです。
 
 
よく「ヨーガをすると自分らしく生きるようになると言われますが、それは周りを見ずに自分勝手になってしまうことになるのではないですか?」という質問を受けます。
 
 
これは「本当の自分を生きること」と「情動に任せて生きる」ことを混同している際に出る質問だと思います。
 
 
 
「自分らしく生きると」は、洞察によって自分の「本当のところ」(*1下の解説参照)を理解し、状態として受け入れていて、それとともに生き、また必要あればそれに取り組む覚悟もあるということ。
 
 
言い換えれば、「そこにすでにいる本当の自分を生きている」ということ。
外から来た価値観の刷り込みに惑わされることなく、自分が自身の一番の理解者として生きるということ。
ヨーガで言えば、サティヤの状態と言ってもいいと思います。
 
 
自分が自身の理解者として生きるひとは、本当の自分に触れているから、満たされていて、癒されている。
自分の中で完了しているから生き方に迷いなく、グラウンディングしている。
人生の選択を自分で行っているから、他人に責任転嫁もしなければ、被害者意識を持つこともない。
 
  
そして、こうしている人は自分の豊かさや大切さを知ってるから、他人の理解者となる器をもつことができる。逆に言えば、周りの人のおかげさまで生きていることも同時に見えてくるから、つながりの中での気づきが起きるようになってくる。
 
 
 
これは、「自分勝手に生きる」ということとは別です(*2)
 
 
自分勝手に生きるとは、自分がもつ未完了な体験などからくる反応パターンにコントロールされ、その結果起きる反応としての一過性の情動/感情に任せている状態。「盲目的自己中」といってもいいと思います。
 
 
これは、それをもたらす自分の中のあり方や裏の感情や未完了事項を本当に理解している「自分らしく生きる」とは真逆なほど遠い状態であり、自分自身が自分の理解者どころか、心の中で展開する自己防衛のための想像のストーリー展開(妄想/マーヤ)に振り回されているとも言えます。
これは、本当の自分から自分を遠ざける行為であるが故に、自分も気持ち悪いし、問題がすっきり解決することもなく、また周りもイヤな印象を受けたりする。であるが故に、それは自分も他人も傷つけてしまう可能性があります。
 
 
 
そして、じゃあ、「仕事を辞めたらいいんだ」とか、ヨーガをして自分のいろんなところに気づいて、外的な環境を変化させようが、変化させまいが、「自分を生きる」ということに関して、それはあまり関係ないです。
少しは助けになるかもしれないけど、ボクの意見では、いくら外的状況を変えたとしても、上記のことに気づかないと、癒しや変容は起きません。外的状況は変わらなくても、自分の内部に関する気づきが高まれば、そこでいくらでも豊かになることができます。もとい、豊かであることに気づくことができます。
少し厳しく言えば、「あいつのせいで」とか、外的状況のせいにしているようでは、何も変わらない。
 
 
未完了を完了させるというもの同じこと。
 
 
未完了を完了させるとは、決して、未完了があるがゆえに存在する反応パターンによって表に出てくる感情を出すということではない。
未完了を完了させるとは、その時に、押し込めてしまって体験されなく、そのままに残ってしまった(未完了の)本当の感情を体験することによって、そのエネルギーを癒し、それが完了されるということ。本当の自分に触れることです。
 
 
だから、自分の深いところにある(できるだけのところでいいから)本当の自分になるべく近いところで自分を体験してあげることが大切になるのです。時には怖い感じになることもあります。でも、無理をしない範囲で自分を観てあげてください。
 
 
あなたの中には、あなたのいのちやあなたの求めてるものがあるから。
感じること、自分を理解してあげることは、「自分らしく生きる」ために、とても豊かで、勇気ある感動的な行為です。
 
 
そして、今いてくれる人を大切にしましょう。今回書いたこともそうですが、気づきの多くは日常での関係性によって、内側からからやってきます。そんなことを気づかせてくれるパートナーやティーチャーがいるととてもいいですね。
 
 
(*1)「本当のところ」というのも、「本当って何だ!?」と聞かれますが、ここでは、勇気を持って自分のあり方の裏に深く潜む、本当の気持ちのことだと思ってください。でも、日時変化し、固定化されたものではないと思います。例えば、人のことをああだこうだと本気で言ってる人の場合、自分に対する自信のなさを隠すためにそれを出してる可能性があり、またそれは子供の頃に親から「あなたは何をやってもダメだ!」というように言われていた結果、それが自分のセルフイメージに刷り込まれ、またそれが自分の快適ゾーンになっていて、なかなか抜け出せない。でも、最初のその他人にたいする声は、自分自身に対する声であり、親にすかれたいという欲求だったりする可能性があります。その時、「本当のところ」とは、「お母さん、お父さん、わかってよ!」という声ですね。
 
 
(*2)結果的に外的な変化としては、同じように見えることもあります。ひとは自分の心の中のあり方を他人に投影することによって自己確認をしていると言われます。上記の文脈の中での「自分を生きている」Aさんを見るBさんが自分を生きずに自分勝手に生きている場合、Bさんの心の投影によって起きるBさん自身の主観的世界の中ではAさんは自分勝手に生きているように見えることもあるかもしれません。しかし、実際に「自分を生きている」Aさんの内的な状況としては雲泥の差がある。結局は一切唯心造。見る人の心がその価値を決めている)。

tag:
share:

講座のお申し込み、メールマガジン登録、
ご質問などについては、
以下よりお問い合わせください。

お問い合わせ