masayoga column

包括的に哲学を学ぶ意味

包括的に哲学を学ぶ意味

人間の幸せって、やはり概念によるものが大きいと思うのです。
その概念は文化であり、それはおよそ2600年前くらいからのギリシャ哲学(中世は少し無視しますが)からずっと脈々と受け継がれてきたものなのですが、それの影響で私たちの幸せが、ある程度定義されていると思います。

幸せが定義されるということは、不幸せも定義されるということで。
ということは、不幸せも、これまでの哲学の文化の中で出来上がってきたものに過ぎないということになります。

ならば、それを定義しているものが何なのかに「気づく」ということは、「それ」から出るために、必須のこと。
なので、私たちは「哲学」を学ぶのだと思います。

私たちが何に縛られているのか。
その気づきは、世界潮流の中での古代から現代分析哲学までの潮流を学んでこそ、起きるもの。

だから、愛情を込めて、苦言を申したいのですが、インド哲学だけ、ヨガ哲学だけ、仏教だけを学んでいてもダメだと思うのです。
インド哲学も、ヨガ哲学も、仏教哲学も、やはりこの世界の中にあり、縁起の中で少なからず発展してきました。

やはり、これは人間の性なのかはわからないのですが、ソクラテス、プラトンの影響が世界にとてつもない影響を及ぼしている。
だからこそ、彼らが何を残し他のか、そこから哲学体系がどう変遷して行ったのかを理解することが、自由を見つける極めて大切なことなのだと思います。

ニュートンの「自然哲学における数学的諸原理」(プリンピキア・マティマティカ(PM))へのオマージュとして、ラッセルとの共著で「PM」を著した、ホワイトヘッドが残した言葉がとても重く響きます。「
「西洋哲学全般において確実に言えるのは、すべてがプラトンの脚注にすぎないということである」と。

なので、ヨーガ、瞑想の哲学を知るには、ギリシャから始まる西洋哲学を学びたいのです。
その包括性の中に、相対論のように、真理に近づく鍵があるように思います。

そして(まだ書くのかww)、ヘーゲル の弁証法がやはり好きです。
いつまでも、いつ辿り着くかわからないけど、真理を追求する立場(キルケゴール は偉大ですが、早く答えを求めすぎだと感じます)。
そこに更新し続けるが故にいつたどり着くかわからないゴールに対する探究心が生まれ、人間が人間らしく生きられるのだと思います。
この辺りは、内分泌学におけるホルモンのハッキングに関係します。

いずれにせよ、いいたいことは、私たちの幸せ・不幸せを作ってきた、哲学の変遷を学ぶことによって、私たちは自由を得ることができる。
なぜなら、その哲学が我々を縛っているから。
縛っているものに気づけてこそ、自由が手に入るのです。
なので、哲学を学ぶことはとにかく楽しいことです。

好きな話をひとつ。

二匹の小さな魚が泳いでいました。
そこに大きな(抽象度の高い)魚がやってきて、こう言いました。
「君らは水の中を泳いでいるのを知っているのかな?」
二匹の小さな魚はこう言いました。
「水って何?」

さあ、水が何かに気づきましょう。

share:

講座のお申し込み、メールマガジン登録、
ご質問などについては、
以下よりお問い合わせください。

お問い合わせ