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masayoga column
なぜ、ヨーガでは心を止滅させろというのか?〜心の4つの癖を理解する
「ヨーガ・スートラ」はヨーガをして以下のように定義しています。
“Yogas chitta vritti nirodha”
「ヨーガとは心の働きの止滅である」
ここをしっかりと知ってヨーガや瞑想をすることは極めて大切なことだと思います。
このコラムでは、ヨーガの目指す「カイヴァリヤ」(真我独存)、つまり、「解脱」という観点ではなくて、現代における能力開発という観点から見ますね。
さて、なぜ、ヨーガでは心を止滅させろというのか?
それは、人は生まれ持って、基本的にディストピア的思考をするようにプログラムされているからです。
簡単に言えば、自己を守るために悪い事態の想定をして生きているということです。
これはある意味必要ではありますよね。
「赤信号で渡ると危険だぞ!!赤信号で渡るとはねられてしまう可能性がある」ってシミュレートしとかないと、やはり良くないわけです。
でも、それが過剰になると、エネルギーが奪われる。
だから、ある程度コントロールしたいわけです。
さて、ヨーガ・スートラでは「心の働き」を明確に5つに定めています。
私は、様々な学問や自己内省をする中で、「心の癖」として4つを定めるに至りました。
(あくまで、これは私の解釈ですから、完全普遍性があるとは取らないようにして、皆さん自分で確かめていただければ嬉しいです)
こうした「心の癖」があるため、反応的思考をしていると、世の中は、本当のところより、問題の多い世界のように見えてしまいます。
このため、人間開発という点から考えても、ヨーガの定義である「心の働きを止滅する」ことは、とても大切になります。
ここから、その4つの心の癖を見ていきます。
これをご理解いただいたら、気づきの質が圧倒的に高まると思います。
活用していただければ、嬉しいです。
<心の癖①〜局所認識>
心は部分的にしか、物事を理解できません。
つまり局所認識をしている。全ての物事は二つの相反する性質を有している。この二つの統合によって、一つ上に突き抜けられる(抽象度が上がる)わけですが、プラスかマイナスどちらかだと決めつけてしまいます。
例えば、今好きな人を好きな時に同時に嫌いになれないですよね。逆も然り。
仏法で、三毒という言葉があります。
これは、「貪」「瞋」「痴」という3つの心のあり方をいい、全ての煩悩の元とされています。
「貪」は、貪る心。好きだというプラス。これが大きくなると執着になる。プラスがつきすぎて、ニュートラルから離れれば離れるほど、それがないことを恐れているから、プラスがつきすぎると基本的に恐れベースで生きています。
「瞋」は、嫌味嫌うこころ。これはも、あるだけで嫌だし、くるのが怖いから、恐れベースで生きている。
「痴」は、全ては空であるということがわかっていない錯覚状態を言います。全てはニュートラルであり、心で良いとか悪いとか言ってるだけということが見えてない。無明とも言いますね。
プラスに触れてもマイナスに触れても、強くなると、恐れベースになるから、プラスもマイナスも実は消したほうがいい。
あってもなくてもいいよ〜というニュートラルな境地だと、自分の本当の能力が発揮される状態になれますね。
プラスとマイナスがなくなったら、人間じゃなくなっちゃうじゃないですか!
って声が聞こえてきそうですね。
実はプラスとマイナスがついてるから、人は自分のそのままを観ることができない。
「観自在」できないんですね。
プラスとマイナスがついてるから、本当の自分を殺して生きている。
こうあっちゃいけない、こうしなきゃいけない。
プラスとマイナスがついていない、ニュートラルなところは、エネルギーが最大のゼロポイント。
あなた「らしさ」がたっぷりで、「らしくない」ことができるエネルギー最大値のポイントです。
自分には、どんなプラスやマイナスがついているか、観てみるととても面白い気づきが生まれますよ☆
<心の癖②〜固定化>
「諸行無常」。
仏法の教えである「四法印」の一つですね。
昔、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり、沙羅双樹の〜」と始まる平家物語で馴染みがある方もいらっしゃかと思います。
それが指し示すように、全ては移り変わります。
全ては振動しています。人も世の中もずっと変化を続けている。
量子論でも人の意識の干渉(観測)が、その対象に影響を及ぼす(波動関数の崩壊)ため、本当のところなど捉えることはできないと言っています。
つまり、心で見ても、本当のところなどわからない。
しかし、心はその一つを切り取って、映像的な合成を行い、映像から写真を切り取るようにその瞬間を固定します。
さらには、それを記憶に残し、それを「自分」という自我の構成要素として取り込んでしまう。
そして、その自我の状態を維持させたがります。
これによって、対象の固定化が起きます。
また、人の根源欲求の一つは「安心」です。人は未知のものに対してある程度の不安を覚えるものです。
このため、未知ではなくそれを既知のものとし、固定化することで安心を得たということにしておきたいのです。
「嫌な人」だなと認識した瞬間、その人は「嫌な人」として固定化されます。
それから一週間、物理的にも情報的にも会うことがなければ、その人は一週間「嫌な人」のままですよね。
でも、よーく、考えて見てください。
一週間、嫌な人で居続けることの方は難しいww
固定化に任せてしまうと、実態など捉えることはできません。
さあ、固定化してしまった、あなたの世界を溶かして見ましょう。
可能性が広がるのを感じるでしょうか?
次の瞬間、もう物事は動いています。
「不確定の中に生きること」。
これはとてつもない潜在エネルギーを取り出すコツでもあります。
だって、不確定なんだから、可能性しかないでしょ?
世界は固定化されているととるか、ダイナミックなものととるか。
人生は大きく変わると思います。
でも、大丈夫!
溶けない氷はないですよ。
白隠禅師が「坐禅和讃」で語って居ます。
「衆生本来仏なり」
(物事がみえてないとしても、みんなみんな、本来仏です)
「水と氷の如くにて」
(それはまさしくちょうど、水と氷のような関係)
「水を離れて氷なく」
(水があって初めて氷ができるのと同じように)
「衆生の他に仏なし」
(私たちが居て初めて仏がいます)
氷はゴツゴツ当たりますが、水は飄々としています。
固定化を外して、この無常という可能性の海にダイブしたいものですね!
<心の癖③〜歪曲化>
心の癖の3つ目。「歪曲化」
これは、ある意味シンプルですね。
心の癖②の「固定化」はある意味、固定化に包摂されるものでしょう。
「歪曲化」。
これは、簡単に言うと、「盛っちゃう」んですね。
人が心を通して物事を認識する際には、必ずそこに情報が付与されます。
怖そうな人のように見える人を見たら、「怖い人だ!」と情報を上乗せして、かつ固定化もしてしまう。
ある意味、ヨーガ・スートラいうところの誤謬(対象の実態に基づいていない不正な知識)とも言えるでしょう。
それはその時点でもうすでに実態を捉えておらず、歪み捻じ曲げられた虚像に過ぎません。
情報を外して初めて、真の関わりといえるのではないでしょうか。
街を歩く時、自分が何を盛ってしまっているのか、先入観でレッテルを貼ってしまっているのか、気づいてみましょう。
面白いことが起きますよ☆
<心の癖④〜ネガティブ偏向>
人の行動原理は、原則的には二つ。快を求めるか、不快を避けるか。
そのうちでも、特に不快を避ける方が強いと言われます。
このため、良くないことを想定しておいて、それに備えておくことをとても大切にする。
生まれ持って、自己防衛本能的に、ネガティブ思考傾向にあると言うことですね。
そして、人は多かれ少なかれ、過去に傷ついたと認識した経験を持ちます。
それはストレス反応であり、不快なことです。
ですから、一度傷ついて不快な体験をしたら、それを避けるように自己防衛本能が働きます。
ボクは、子供の頃、何度か崖から一度落ちた経験を持つので、崖があまり好きではありませんww
しかし、そのストレス反応を暴走させていると、世の中は不快なものでいっぱいになってしまう。
しかもそれは、歪曲化されたものであり、実態ではない。
ネガティブ偏向の心の反応パターンが暴走すると自分の行動範囲も狭くなり、人生の選択肢が狭くなってしまいます。
大脳辺縁系の扁桃体の暴走もそうですよね。
扁桃体が発火すると、「闘争逃走反応」(Fight Or Flight Response)が起きて、いつも不安になってしまったりする。
いわゆる「扁桃体ハイジャック」が起きてしまいます。
しかし、前頭前野がしっかりと働くと扁桃体の働きが抑制されるというメカニズムがあります。
瞑想は前頭前野の発火です。このため、瞑想をすることによって、落ち着きや平穏が訪れるわけですね。
前に定義した、「起きていることをはっきりと観る」。
「心の働きの止滅」との関係性もだんだん見えてきたかもしれません。
とても面白いですね。
以上、心の癖4つの解説でした。