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masayoga column
「正しい「世界」とは何なのか?そもそも、それは有るのか?あるいは無いのか?」
ヨーガや瞑想をしていると、こういう問いに当たる人も多いのでは無いのでしょうか?
そうでなくとも、みなさん、気になっているテーマかも知れません。
・あの宗教は間違っていて、こっちが正しいだろう。
・科学的に立証されるものこそ正しいのだ。
・目に見えないものは信じれないよね?
とか、

・ヨーガ・スートラの多元的二元論と因中有果論なのか?
・一神教の世界なのか?
・あるいは神道?
・ヒンズー教の神々のいる世界?
・または、神の存在否定をする現代学問や仏教の世界?
・あるいはまたそこから神的存在を認める密教の世界?
とか。
私なんかは、科学の申し子みたいなものなのでww、何においても完全情報は存在せず、それぞれの宇宙は部分集合であり、ゆえに神は存在しないという立場をとっています。
しかし、同時にこうも思うのです。
それぞれが全部正しいと。
前回のサピエンス全史から見るヨーガの回でもわかったように、ホモ・サピエンスは「認知革命」により、「虚構」を作り出すことができた。つまり、架空のものについて語る力を身につけたために、他のホモ属を滅ぼし、世界を席巻します。
そして、それ以降、文化、宗教ありとあらゆることは、これの延長線上にすぎず、ホモ・サピエンスの末裔たちは現代においてはまた新たな「虚構」、つまり資本主義や共産主義などのイデオロギーを作り上げ、世界を作り上げていったのです。
その過程では、簡単に西洋哲学の一部分をさらうと、
——-以下、前回からの引用——–
タレスは、万物の根源は「水」であると主張し、その弟子のアナクシマンドロスは、存在の本質は「無限定な何か」と規定し、その弟子のアナクシメネスは「空気」が根源であると主張します。
ヘラクレイトスは、「万物流転説」を説き、ゼノンの師匠であるパルメニデスは、「万物不変説」を解きます。
また、デモクリトスはやっと現代物理学にちょっと近く、物事の最小単位は、「原子」(atom)であると説きます(a=「〜でない」、tom=「分ける」ということで、atomとは分けられないものという意味)。
そして、初のソフィストと言われるプロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」と言い、相対主義を打ち立てます。
それに反対するように真理の追求をとことん行ったソクラテス。
そして、その弟子のプラトンはイデア論を主張し、それはまたその弟子のアリストテレスによって反駁されます。

ヘーゲルは「弁証法」により、テーゼとその対概念のアンチテーゼをアウフヘーベンすることによってジンテーゼを生み出し、またこのジンテーゼのアンチテーゼをアウフヘーベンすることによって新たなジンテーゼを生み出すことを繰り返すことで真理に近づけるとし、それに対して「実存主義」のキルケゴールは、いつ到達するかわからない真理よりも自分にとってどうか、それだけが大切だと説いた。
——-引用終わり——–
という風に、またその虚構の延長線上で、いろんな真理探究を繰り返していくわけです。
これを見ると、昔の哲学者は何もわかってなかったというような気持ちになってくるかもしれません。
「アリストテレスは、まあわかってたかもだけど、まだまだで、カントなんてニュートンに毒されただけで、その延長線上でアインシュタインは、神を捨てきれなかった。ホーキングなんて、神はいないとか言いながらも実在論的立場を拭い去れなかったじゃないか」などと(ごめんなさい、言いすぎました。もちろん冗談ですww)。
今、私たちは情報化社会の中で生きて、あたかもすごい革命の時代に生きているような錯覚に陥ります。
これは、農業革命以後、最大の革命の時代だ!!!
などと。
まあ、確かにそうかもしれません。
だけど、過去のどの時代も、おそらくですが、それぞれの時代の人々が今こそが革命の時代だと、私たちが今感じているような同じ気持ちでいたのだろうと思うのです。
そして、トーマス・クーンのいうように科学革命とは、「パラダイムシフト」によって起きてきたのです。
あるパラダイムにおいての「理論」があり、それと「観測」を近づけようとすると、不確定性原理によって、そのパラダイムに「矛盾」が生じる。よって、そのパラダイムが壊れて、次のパラダイムが顔を出すというこの構造。
これを拡大解釈するならば、今私たちが、これが正しいのだとして信を置いている「パラダイム」(本当はこの言葉をこの文脈で使っちゃいけないのですが)、つまり、「完全情報は存在せず、それぞれの内部表現は部分集合であり、ゆえに神は存在できないという立場」は、そのうち生じる矛盾によって、覆される時が来るのではないかと思うのです。
それを大前提とすると、今、完全情報は存在せず、それぞれの宇宙は単に部分集合であり、ゆえに神は存在できないということが世界の趨勢だとは思うのですが、それが覆される運命を辿ることは、「科学革命の構造」を読むと、想像に難く無いのです。
ですから、禅がいうように「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得ん」と。
空がわかったというならば、空はあなたはわかっていないのです。
定義づけられた時点でそれは哲学で言う「世界」(つまり、縁起を持たない情報でもそれの存在性を認める完全情報)の規定になってしまい、それは空でも神でもなくなってしまうから、捨てるのですと。
それを元の考えに当てはめると、「完全情報は存在せず、それぞれの内部表現は部分集合であり、ゆえに神は存在できないという立場」も、これは真理という風に掴んだならば、捨て去るべき今の時代背景の虚構であり、それは、200年後の人類から見たら、「あの頃の人間ってさ、間違ってたよねえ」と言われることは十分に、いやほぼ確実にありうるのです。
だとしたら、一体、何を採用すればいいのか?
それは、あなたがそれぞれの、パラダイムを知り、その中で思い切り、そのパラダイムを楽しめるならば、それが一番だと思うのです。
まさに、「色即是空 空即是色」。

脳は、その信じたパラダイムの中で世界を構築します。

例えば、ヨーガ・スートラのパラダイムを採用して、サマーディの一つである、「有想三昧」のプロセスが、「有尋三昧、有伺三昧、有楽三昧、有我想三昧」、そして、その次には「無想三昧」が来るとすれば、脳がそれを作り出してくるのです。
梵我一如を採用して、そのブラフマンとの合一を目指すならば、アートマンとブラフマンとの一体化が起きているという内部表現を脳が作り出してくるのです。
真理は自ずとそこにあって、それにたどり着くのではなく、どんな真理を採用するかが先なのです。
そして、その中で、自分との縁が結ばれ(縁起)、体験が起きていくのです。
個人があって、それが共同体を作るのでは無いのです。
なので、前述した、どれが正しいのかについては、今正しいとされていることは、パラダイムシフトによって覆されることが前提ならば、あなたがそれを選んで幸せならば、それでいいと言うことになります。
そこに自信を持って進んでいけばいいのです。
