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masayoga column
「どんどん進化しよう!」
今回は、「進化」することについて書きます。
「二項対立がアウフヘーベンし、視座(抽象度)が上がること」
としています。
言い換えれば、
「問題だったことが、問題じゃなくなること」
と同じ。
実は人生の中でこの「進化」こそが最も重要なことなのではないかと思います。
実は相反するように見える「A」と「B」ということが同じものだということがわかるだけで、その間の葛藤が消える。
また、ヨガって、まさにこの「進化」のためにあるし、これこそが人生の楽しみだなあと思うのです。
(この辺り、仏道の「空」っぽいテイストだなあと感じますが、決定的な違いもあります。この辺りはまた別の機会に論じます)
こんなふうに自分を苦しめている信条的な「定立」に対して、それは間違っているという「反定立」を打ち立て、自己問答する中で、アウフヘーベンさせ、そして、抽象度の高い「綜合定立」を見出して開放されていく作業が、顕教的な瞑想の一つのやり方とmasa-yogaでは、系統立てています。
「とんでもない逆境に遭う」
ということは、近視眼的には、「良くないこと(「A」)」のように見えるかもしれません。
つまり、
「とんでもない逆境に遭う」=「良くないこと(「A」)」
という方程式が、あるのですね。
でも、実はそれが往々にして人生のビッグチャンスであることはよく言われています。
それがあるから人生が好転した人を何人も見ているし、過去の自分もそういうことは何度もありました。
つまり、その際には
「とんでもない逆境に遭う」=「良いこと(「B」)」
という方程式が成り立ちます。
よって、三段論法で、「A」=「B」となり、
「とんでもない逆境に遭う」ということは、問題でもなんでもなくなるということですね。
これが、「進化」です。
そして、その進化の究極形が、仏法でいうところの「空」(くう)なのです。
「空」とは、こう経典に出てきます。
「いかなるものも恒久不変かつ独立した実相を欠く」と。
全てのものは、移りゆくものであり(恒久不変でない)、それがそれ単体でそうであるということはなく(独立してない)、必ず関係性の中にそれがあり、関係性は二つの存在あって成り立つ。そのどちらかがなければその関係性はないため、どちらかがあるからそれが存在できると言う条件節がある以上、その物事の存在の絶対性はないのだということです。
「有」と「無」の包摂概念と申しましょうか。
普通にみたら、「有」と「無」は反対のことを言っているように見えます。
コップの中に水がなみなみと入っていたら(有)、もう入ることができない(無)。
だけど、コップの中が空っぽ(無)だということは、そこにはなんでも入れていいというポテンシャルエネルギーが最大に存在する(有)。
「空」とは非常にダイナミックな感覚であり、可能性やエネルギーに溢れた状況なのです。
しかし、ご存知のように、もちろんこれは言葉で表している以上、もうその時点で違います。
なぜなら、「空」とは言語表現の抽象度を超えたところにあるため、言語表現をしてしまうともうそれでなくなってしまうのです。
釈尊が「無記」と言ったり、禅で「不立文字」としてこれを表しているのもよくわかります。
また、「空」を大成した「ナーガールジュナ」(龍樹)は、その主著である「中論」において、こう記しています。
「(宇宙においては)何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生じることなく(不生)、 何ものも終末あることなく(不断)、なにものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と 同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることもなく(不異義)、何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)、[われらから]去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。
つまり、「空」は、否定辞でしか表せないということなのです。
言語表現してしまったもの(ここでいう「戯論」(けろん)です)の消滅はめでたいとまで書いています(そこまで言わんでええやんって正直思いますがwww)。
真理は言葉では表せないのですね。概念化した瞬間に相対化されてしまう。
つまり、物事の存在の絶対性、実在性を真っ向から否定し、そこに真理を説いたのが、釈尊なのです。
こんなふうに、いろんなところで結構、共通項が見えると面白いものですし、
本当に「相反するもののように見えることが、実は同じことだったりする」
これがわかるだけで人生は、ガラッと変わりますね。