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仏教を超えた仏教の味方~釈尊の凄さと近代の学問や科学との整合性について

仏教を超えた仏教の味方~釈尊の凄さと近代の学問や科学との整合性について

今回は、釈尊の教えのすごさについて、簡単に書いてみたいと思います。

 

 

まず、教えの根本を成す、縁起と空について解説させていただき、それらがどのように近代科学や学問と整合性を見事にとっているのかについて、簡単に書いてみたいと思います。

2400年ほども前にこうした近代科学も何もなかった時代に、こうしたことがわかっていた釈尊。本当にすごいと言わざるを得ないです。

 

 

四諦や四法印などの仏法の教えについての個別具体的な内容よりも、学問全体の中での仏教の位置付けや主張について理解すること、全体像の中での仏教のゲシュタルトを作ることをゴールにしたいと思います。

 

 

ちなみに、有名な科学者が面白い言葉を残しています。

この2人は、量子論に関して論争を続けた論客同士というのも面白いところです

 

 

 

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アルバート・アインシュタイン(1879 – 1955)

現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものがあるとすれば、それは仏教です」

 

 

ニールス・ボーア(1885 – 1962)

原子物理学論との類似性を認識するためには、 われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した 認識上の問題にたち帰り、 大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」

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<釈迦の悟った事>

 

釈迦はこう語っています。

 

 

「自分の悟ったところを、人々に話して聞かせることはむだである。自分の 悟った法は、あまりにも深く、あまりにも微妙であって、愛欲に盲いた人々のよく理解するところではない。説法することは、むだな努力であり、いや、聖なる法を、それにふさわしくない方法で取り扱うことにもなる。このまま沈黙をまもり、ただちに涅槃にはいるに如くはない」

 

 

つまり、その悟りは、伝えることはできないという立場だということです。

釈迦は「無記」とし、なかなか人に教えをすることを拒んだそうです。

 

 

まさにこれは、イエスの言った豚に真珠を思い出します。

 

 

「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」と。

似てますよねw

 

 

史実では、梵天勧請と言って、梵天様が出てきて、釈迦に教えを広めるよう懇願します。

そして、重い腰を上げて、ベナレス郊外のサールナートで共に苦行をしていた者たちに教えをするのが「初転法輪」です。

 

 

では、その教えの根幹である、「縁起」と「空」について、簡単に書いてみたいと思います。

 

 

「縁起」とは、英語では、”Interdependent origination”といい、全ての物事は、お互いの関係性の中に生起する者であるということです。

よって、その関係性がない場合、その物事の発生はないとするならば、その物事の実在性は否定されるということ。

例えば、親は子がいて親となれる。

ならば、子がいないならば親でないことになり、親という在り方はの絶対性は否定されるということです。

 

 

全ては、縁によって生じるというか、縁によってしか生じないということですね。

絶対的な東、絶対的な左って存在しないのと同じです。

 

 

 

「空」とは、こう経典に出てきます。

「いかなるものも恒久不変かつ独立した実相を書く」と。

 

 

全てのものは、移りゆくものであり、それがそれ単体でそうであるということはなく、必ず関係性の中にそれがあるということなので、その物事の存在の絶対性はないのだということです。

また、「存在論的」な説明をするならば、空というのは限りなく情報量が軽く抽象度の最も高い概念です。

「有」と「無」の包摂概念と申しましょうか。

 

 

普通にみたら、「有」と「無」は反対のことを言っているように見えます。

しかし、こう考えてみてはどうでしょう?

 

 

コップの中に水がなみなみと入っていたら、もう入ることができない。

だけど、コップの中が空っぽ(無)だということは、そこにはなんでも入れていいというポテンシャルエネルギーが最大に存在する(有)。

よって、「有」と「無」は同値であり、それを「空」として表している。

「空」とは非常にダイナミックな感覚であり、可能性やエネルギーに溢れた状況なのです。

 

 

しかし、ご存知のように、もちろんこれは言葉で表している以上、もうその時点で違います。

なぜなら、「空」とは言語表現の抽象度を超えたところにあるため、言語表現をしてしまうともうそれでなくなってしまうのです。

釈尊が「無記」と言ったり、禅で「不立文字」としてこれを表しているのもよくわかります。

 

 

 

また、「空」を大成した「ナーガールジュナ」(龍樹)は、その主著である「中論」において、こう記しています。

 

 

「(宇宙においては)何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生じることなく(不生)、 何ものも終末あることなく(不断)、なにものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と 同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることもなく(不異義)、何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)、[われらから]去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。

 

 

つまり、「空」は、否定辞でしか表せないということなのです。

言語表現してしまったもの(ここでいう「戯論」(けろん)です)の消滅はめでたいとまで書いています(そこまで言わんでええやんって正直思いますがwww)。

真理は言葉では表せないのですね。概念化した瞬間に相対化されてしまう。

 

 

つまり、物事の存在の絶対性、実在性を真っ向から否定し、そこに真理を説いたのが、釈尊なのです。

 

 

このことは、近代科学や近代の学問でも、同じようなことが言われており、何週間かに渡ってご紹介していきたいと思います。

 

 

 

 

<仏教を新約聖書から紐解く>

 

 

近代学問では無いですが、聖書学という意味でのキリスト教からも似たところを導くことができます。

新約聖書にある、パウロが書いたとされる「コリント人への第一の手紙」からみてみましょう。

 

 

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「コリント人への第一の手紙」13章1節~13章3節

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

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ここで言っているのは、愛がなければ、「わたしは無に等しい」「愛がなければ、一切は無益である」というところ。

愛がなければ、何も意味がないというようなニュアンスでしょうか。

ここに愛がないならば、全ては無であるという縁起的ニュアンスを読み取ることができます

 

 

また、「ヨハネの第一の手紙」でも、

 

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「ヨハネの第一の手紙」4章12節

「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」

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「愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし」と。

これ完全に条件節なのわかりますでしょうか?

 

 

ひっくり返すと、愛し合わないなら、神はいないと言っているのです。

つまり、またここでは飛躍かもしれませんが、縁起が神であり、それを愛と呼んでいるのです。

ここも「縁起」の香りが香しく漂ってきます。

 

 

 

さて、長くなってきたので、この辺りでまた次回に委ねたいと思います。

予定している内容は以下です。

ここまで行けるのか?とワクワクします!

お楽しみに!

 

 

 

・仏教とトーマス・クーンのパラダイム論

・仏教とマイケル・ポランニーの暗黙知

・仏教と量子論

・仏教とマルクス・ガブリエルの新しい実在論

・仏教とヴェルナー・ハイゼンベルクの不確定性原理

・仏教とクルト・ゲーデルの不完全性定理

・仏教とジェームス・マクスウェルの熱力学

 

 

 

 

 

早めにお知りになりたい方は、今回の内容については、6月3日のダルマトークで解説しますので、ぜひよろしければどうぞ。

◯ ダルマトーク 「仏教を超えた仏教」

https://masa-yoga.com/program/1381/

 

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