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masayoga column
サマタとヴィパッサナーの関係性
顕教・密教
瞑想って、坐って静かに、まさに静坐しているものだと思っていませんか?
確かにそれが基本中の基本です。
それがなければ、静かな心の状態でないと瞑想などできたものではない。
荘子の言葉にも、「明鏡止水」というのがありますが、これは、「曇りの無い鏡と澄んだ水面のように、安らかに落ち着いた心境」。
まずはここを目指します。
こことは「空観」のこと。
しかしながら、その後には、そこから「仮観」に行って、自分に、名付けし、実在性を与え、機能を持たせる。
そうして世の役にたつ。
もちろん、そんな綺麗なもんではないですが、要は自分の思い描く人生を、自覚的・選択的・自由意志を持って生きるわけですね。
(この辺りの詳しい情報はこちらをご覧ください「瞑想の数式化」 )
実観・空観・仮観
その中で空観に向かう過程の中で、顕教(けんぎょう)というカテゴリーに入るのが、以下の二つの瞑想。
「止観」(しかん)
「止」は、「サマタ瞑想」とも言われ、一点集中して心をつなぎとめ、禅定あるいはサマーディ(三昧)の境地を目指します。
「観」は、「ヴィパッサナー瞑想」とも言われ、「気づき」が入ることで、心の展開が暴走することを止めたり、諸法の無我性や無常性を見抜きます。
でも、簡単にいうと
・サマタでは、暴走しにくい、静かな心の状態に常日頃なるよう手入れをしている。
・ヴィパッサナーでは、暴走する前に「気づき」、常日頃その暴走を食い止めている。
と理解してもいいでしょう。
「止観双雲」(しかんそううん)という言葉がありますが、これは、サマタとヴィパッサナーの行の相互性について説いています。
サマタを先にしてから、ヴィパッサナーをするのがいいのか、あるいは逆か、あるいはどちらかだけでいいのか、などなど。
サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想はどちらが先か?
私は、「サマタをある程度修めてから、ヴィパッサナーに行くべき」と主張しています。
その理由は、
図1にあるように、サマタ瞑想をしている人は比較的思考の暴走が少ないです。
これは、デフォルトモードネットワークの暴走は、一点集中による背外側前頭前野の発火によって、安定化するということからも立証されています。
図1で言えば、赤い方が瞑想をしていない心の暴走状態で、これによって過去に行ったり、未来に行ったりしすぎてストレスが溜まってしまうことが問題視されています。
また、図2はヴィパッサナー瞑想を日常で実践している人は、気づきが早く入るため、横軸の時間の経過の比較的早い段階で、「気づき」が入り、問題が少なくなります。
三角形の面積が問題量を表していると仮定すれば、青い人つまりヴィパッサナーを実践している人の問題量は、「3」であるのに対し、赤い人つまりヴィパッサナーを実践していない人の問題量は、「50」です。(底辺×高さ÷2)
と、とんでもない開きになります。これはあくまでもイメージですが。
また、もちろんこんなに心は単純でないですが、単純化するならこういうことです。
つまり、
・サマタは、図1の縦軸を低く保つ。つまり、問題を問題化する無題な思考を抑える。
・ヴィパッサナーは、図2の横軸の展開を防ぐ。つまり、時間の経過とともに暴走し、問題を大きくする心の展開を、気づきによってスパッと止める。
そして、もしサマタをしていなければ、そもそも無駄な思考が多い中で気づきが入っても、その効果は薄いことが想定されます。
このため、サマタで無駄な思考を止め、その上で、ヴィパッサナーで問題を引き起こす思考の暴走を止めることで、圧倒的な効果を得られるわけです。
ということで、サマタとヴィパッサナーつまり、「空観」に向かう行の実践だけでも、かなり大きな効果が得られることがわかりますね。
ぜひ、この素晴らしい瞑想の道、楽しんで見てください。
瞑想指導者として、皆さんのお手伝いができればとても嬉しいです。
オンライン瞑想アカデミーでもこの辺りどんどん明らかにしていきたいと思います。
(図1)
(図2)